山下輝樹という人間について【生き様ブログ】

こんにちは!

山下輝樹です。

1997年生まれの23歳です。

2021年3月現在、新卒で入社した東証一部上場の不動産会社を11か月で辞め、現在は有給消化中です。

僕自身そこまで気は落ちておらずワクワクの方が断然大きい状態です。

拙い文章ではありますが今回、僕の「生き様」を書いたので読んでもらえると嬉しいです。

5分ほどで読める量になっておりますので是非。

誕生

1997年12月28日、熊本県のド田舎で生まれる。

ひとつ上の姉に毎日付きまとうストーカー気質。お調子者。

自分で言うのは何だが、幼いころの写真は姉よりも女の子みたいで可愛かった。(今は面影なし)

両親が共働きだったため、祖父と祖母が面倒を見てくれた。

小学生時代

小学生になる。

田舎の小学校で、同級生は9人(後に合併して25人になった)。冗談抜きで全員が友達。

誰よりも早くクラブ活動に行くことにこだわる。

忘れ物をしたときは祖父の家(走って3分)にダッシュして何とかしてもらう。

勉強は嫌いではなかった。記憶が正しければかなりの優等生だった。

小学校の先生だった母の影響で、毎朝5時に起きて宿題をしていた。母は基本的にとても優しい。怒られた記憶はほとんどないくらい、自由にさせてくれた。

毎朝、登下校のパトロールボランティアをしていた祖父が僕の自慢だった。10年以上経った今でも毎朝パトロールに出かけているスーパーマン。

プライドが高く、サッカーの選手に選ばれなかった時はみんなの前で大号泣した。この性格は小学生時代から変わっていないと思う。体が小さかったにも関わらず、バチバチに当たりに行っていたため怪我が絶えなかった。

教えられたことをするのは得意だったと思う。授業やクラブ活動でも先生に言われたことは難なくこなしていたが、自分で考えて何かを行動することは苦手だった。自由に作っていい図画工作は大の苦手。最後の最後まで自分が何を作っていたのか分からなかった。というより、何をすればいいのか分からなかった。もちろん評価は「3」。可もなく不可もない人間の出来上がり。周囲に流されて何となく入った陸上教室も、何となく練習に行き、何となく大会に出て、何となく辞めた。

母の勧めで通っていたスイミングスクールも、姉と同じクラスになれずに不貞腐れて辞めた。ちなみに今は平泳ぎしかできない。

中学生時代

中学生になった。

体が小さく、制服はダボダボ。周りは自分よりも大きい。よく先輩からいじめられていた。

サッカー部に入った僕は、1年生の頃からとことん鍛えられた。顧問の先生が異常に怖く、部活から逃げるようにして生徒会に入った。2年生の頃は書記。3年生になると会長をしていた。自主的にやったというよりも他にやる人がいなかったと言った方がいいだろう。ここでも何となく精神は健在だった。

3年生になると怖かったサッカー部の顧問も転勤してのびのびと部活をしていた。部員が少なく、合同チームで大会に出ることになったが、県大会常連校になるくらい強かった。一応レギュラーで出させてもらっていたが、体が周りよりも小さかった僕は相手からすると穴だったと我ながら思う。

高校受験は、親の勧めで市内の進学校を受験することになった。特に勉強を頑張った訳でもないが合格した。

高校生時代

高校生になった。高校に入っても何となく人間は衰えを知らない。むしろ成長していた。何となく野球がしたくて野球部に入った。何となく生徒会にも入ってみた。これまで嫌いではなかった勉強も何となく嫌いになっていった。

野球なんて小学校の時にソフトボールをしたくらいで、ほぼ初心者の状態では入部した。しかしこの決断が後にとんでもなく僕の人生を左右することになる。そのことは追って書いていくとして、僕は野球にのめり込んだ。7時20分からの朝課外の前に野球場に行って黙々と自主練をしていた。放課後はダッシュで野球場に向かいみんなが来るのを待った。チームメイトとする野球が好き。この気持ちだけで3年間がむしゃらに練習した。しかし、この努力は儚く散ることになる。最後の夏の大会前日に右肩を脱臼した。もともと脱臼癖があり、投げたと同時に肩も外れた。大会当日は意地で掴んだ背番号「8」と三角巾ををつけてベンチから試合を観ていた。死ぬほど悔しかった。なぜあの時無理して投げてしまったのか。悔やんでも悔やみきれない。6年経った今でもあの時の悔しさは忘れられない。

野球を引退して大学受験へ切り替えた。これは野球部の宿命だが、他の部活よりも最後の大会が1ヵ月ほど遅い。周囲に後れをとっていた。焦りと不安が心に火をつけた。元旦以外は6時の開門と同時に学校へ行き、19時の閉門までひたすら勉強に打ち込んだ。家に帰って21時には就寝。朝は3時に起きて勉強。この生活を1年間続けた。しかし志望校には受からなかった。センター試験(大学入学共通テスト)の出題形式が変わってそれに対応できなかった。と、ここでまた悔しい思いをした。高校時代は悔しい思い出ばっかりだ。

好きな子もできた。高校1年生のころから大学生までずっと好きだった。その子はソフトボール部で野球場の隣でいつも練習していた。顔立ちがしっかりしていてモデルのような子だった。偶然にも同じポジションで意気投合し仲良くなった。初めてのデートは冬の寒い海だった。意味わからんくらい寒い上に強風でまともに話が出来なかった。「デートと言えば海」という意味不明な縛りがこの大失敗を招いた。二度目はなかった。当然だ。

大学生時代

大学生になった。姉と同じ大学に特待で行けた。

はじめの2年間は部活に明け暮れた。部活は準硬式野球部に入った。また楽しい野球ができるとワクワクしていた。しかし、脱臼が怖くてボールを投げられない。俗にいうイップスだ。2年の夏、手術することを決意した。手術が終わり、やっと野球ができると思った矢先、担当の先生からドクターストップがかかった。肩の状態が思ったより深刻だったようだ。何となくそんな気がしていた。この時は不思議とあまり悔しくはなかった。それもそのはず。新しい趣味が出来ていたから。手術後のリハビリの過程で”筋トレ”に出会い、既に没頭していた。たるんだ体型がみるみる引き締まっていく。頑張ってもなかなか成果が出なかったこれまでの人生で、こんなにもすぐ目に見えて成果が出るものは僕に衝撃をくれた。面白い。82キロあった体重は半年で68キロにまでなった。14キロの減量に成功。何も苦しくなかった。むしろ楽しかった。

体が引き締まり、自分に自信が持てるようになった。ここで高校時代の恋が再び動き出す。
冬の極寒の海を共にした”あの子”とご飯に行くことになった。緊張しながらも駅で待ち合わせして居酒屋へ向かう。話が弾み二次会へ向かう。終電を逃す。ここまでは話が上手くいきすぎている程順調だった。しかし山下はここでとんでもない過ちを犯す。車で一夜を明かすという謎行動をしてしまった。今考えれば代行で帰るか、カラオケとか行くかするべきだった。なぜ車?しかも8月の一番暑い時期。汗を垂らしながら二人で眠った。冬の極寒も夏の灼熱も共にした僕たちはある意味もう特別な関係なのかもしれない。「あの頃の自分とは一味も二味も違う。今度こそは大丈夫!」そう確信して意気込んでいた待ち合わせ前。何一つ変わっていなかった。むしろ灼熱の車内で寝るという成長ぶりを見せていた。
当然、次はなかった。我ながら呆れる。

髪も染めた。ピアスは開けなかった。友達は少なかったが濃い人間関係を築くことが出来た。毎晩飲み明かし、たくさん語った。そんな日々がとても楽しかった。「いつかみんなで一緒に働きたいね」そう語ったことを僕は今でも覚えているし、本気で叶えたいと思っている。

3年生になると、これからの将来に対する不安が芽生えてきた。資格も何もない、やりたいこともない。とりあえず母の勧めで受けていた教職課程で教育実習に行くことになった。実習の時期について学部長と大喧嘩したのもこの頃だった。学校の先生にでもなろうかな。でも一般企業も受けてみようかな。と思い受けたのが東建コーポレーションだった。営業の面白さ、奥深さに魅了された。「この会社でトップを獲る」最終面接でこう言い放ち、入社を決意した。

卒業旅行はコロナで中止。ちょうどコロナが流行りだした時期だった。最後の最後までついてない。でもそんなことも笑い話に出来るほど楽しい仲間たちだった。

社会人1年目

社会人になった。晴れて独り立ちすることが出来た。
東建コーポレーションで立派な営業マンになると意気込んでいた。しかし、緊急事態宣言が全国で発出され入社して半月で自宅待機。出鼻をくじかれる形になった。半月の自宅待機が終わり営業を始めた。飛び込み営業は基本的にお断りばかりだ。「もう来るな」「お前の顔は見たくない」と言われることは当たり前。警察を呼ばれたこともあった。しかし、メンタル的に落ち込むことはなかった。これが当たり前。そう自分の中で区切をつけていたからだ。

転機は入社して4か月目に訪れた。朝どうしても起きられない。これまで生粋の朝型人間だったはずが起きられない。いや、起きていても何もする気になれなかった。嫌々仕事に行くもお客さんの家には行かない。ただただ車で時間が過ぎるのを待つ。上司からの電話も聞き流す。昨日までも、確かにお客さんのお断りがきつくメンタル的にも少しきていたが、いつも通りだと思っていた。しかし今回は何かが違う。何の気力もない。何をされた訳でもないが、周りの人が全員敵に見えた。「死にたい」本気でそう思っていた。完全なる無気力状態だった。そんな日が半月ほど続いた。さすがにこのままではいけないと思った僕はジムに行くことにした。近所にあった24時間制のジムで、誰もいない深夜を狙って通った。人と会いたくなかった僕は、誰か来ると逃げるようにして帰った。毎日通った。大学時代の熱い自分に久しぶりに再会したような感覚で熱中した。次第にジムに人が来ても帰ることはなくなり、対人間生活が再スタートした。

猫を飼うことにした。大学時代に足繁く通っていた保護猫カフェの白黒猫を引き取った。名前は「令」。めちゃめちゃ可愛い。とにかく人懐っこくて鳴き声がまあ可愛い。オスなんですけどね。そして毛がめちゃめちゃ抜ける。二匹目も保護猫カフェから引き取ってきた。名前は「宙(そら)」。これまためちゃめちゃ可愛い。令とは対照的で超やんちゃ坊主。カーテンにも平気で登る。毛がふさふさ。顔がめっちゃ猫。インスタグラムに投稿しているので是非見て欲しい。

仕事は、以前の感覚を失っていた。お客さんの家のインターホンを押すのが怖くなっていた。知っているお客さんの家にい行くのがやっと。当然、案件が出てくる訳がない。このままではいけないと何度も思ったが、体が動かない。大学時代のイップスと同じ感覚だった。こればかりは手術で治るものでもない。唯一の救いは同期の存在だった。「みんなが頑張っているから自分も負けたくない」そんな気持ちだった。そんな期間が1か月ほど続いたが、この頃に退職を意識し始めた。

しかし、退職するにしてもやりたいことなんてない。そこで身震いがした。これから先の人生、何を楽しみに生きていくつもりなのか。このまま嫌々この仕事を続けていくのか。考えるだけでも恐ろしい。とりあえず興味があることに片っ端から挑戦してみようと決意した。まずはプログラミング。これからの時代はエンジニアが足りなくなってくるという記事を見た。とりあえずやってみた。はじめは楽しかったが、次第に起動が遅いパソコンに腹が立ってきて辞めた。次に宅建士の勉強。大学時代のバイト先の店長が宅建士を持っておけば職に困ることはないと言っていたのを思い出してやってみた。これはテキストを買って勉強した。1章が終わって練習問題を解いているときに、その問題の難しさに絶望して1ヵ月で辞めた。次は英語の勉強。英単語帳が実家にあることに気付き諦めた。この調子で30くらいやってみては諦め、やってみては諦めを繰り返した。ほとんど失敗した。かろうじて今残っているものは読書くらい。29は失敗に終わった。

この一連の挑戦の中で気づいたことがある。「あれ、筋トレがあるじゃないか」と。なぜか筋トレはあくまでも趣味なんだと決めつけていた。今まで何となく続けていた筋トレを本格的に仕事にしたい。そう思うようになってきた。

まずは資格を取ろう。周りから固めていくことにした。トレーニングの資格は思った以上に存在した。その中で「筋トレスペシャリスト」の資格をまずは取った。次に日本のトレーナー資格として最も権威のあると書かれていた「NSCA-CPT」の資格も取った。今は「日本ダイエット検定」の勉強中。これも2021年7月に取得予定だ。トレーニングについてもたくさん勉強した。好きなことの勉強は全然苦ではなかった。むしろ楽しかった。

そして準備は整った。2021年3月9日付で東建コーポレーションを退職する。この決断は何となくではなく、僕が真剣に考えて考えて考え抜いた答え。これまで周りに流され続けた23年間。環境を変えて夢を追い続ける。この選択が正しいものなのかは今の地点では分からない。2年後の2023年4月1日にパーソナルジムをオープンする。結果で証明する。絶対に。

今思えば、高校時代に何となく野球部に入っていなければ脱臼もしなかった。そして筋トレに出会うこともなかっただろう。人生どこで何がつながってくるか分からない。だからこそ興味があることには片っ端からどんどん挑戦していきたいし、あなたにも挑戦して欲しい。失敗なんて経験と考えれば何も怖くない。

今はこれからの成長と進化にドキドキとワクワクが止まらない。まだまだこれから先は長い。好きなことで生きていく。

23歳!何にだってなれる!やっふぅっ!

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